みやざきつとむれんぞくようじょゆうかいさつじんじけん
1988〜1989年
警察庁広域重要指定117号『連続幼女誘拐殺人事件』
オタクという言葉を世間に広める結果になった事件。犯人とされる宮崎勤(1962〜20??)が連続的に計4人の幼女を誘拐し殺害した。M君事件とも呼ばれる。
事件の大まかな概要はページ末尾の資料を参照のこと。
事件は1988年8月22日今野真理ちゃんの行方不明事件から始まる。その後短期間に連続して幼女が誘拐された。宮崎勤は遺族へ遺骨・手紙等を届けることによって事件の表へ姿を現し、今田勇子という名で犯行声明を出した。(資料参照)
裁判では「遺体を食べた」などと残虐かつ非道な行為を自供するなど、正常な心理状態とは思えない供述をしたが、複数回にわたる精神鑑定では異常を認められなかった。
この事件で注目すべき点は初めてオタクが公になったことと、宮崎勤の被害者とされている幼女達の年齢である。ほとんどの幼女は4歳ほどであるにもかかわらず、1人だけ7歳と被害者の中では年長である点である。
彼はペドフィリアでありネクロフィリアで会った為、その性癖において年齢はある程度の範囲があったと考えられる為、彼の冤罪説も叫ばれ自供の強制も推測されている。しかしそれに関して真実は定かではない。
この事件は当時の社会に対して大きな衝撃を与えた事は言うまでもないであろう。テレビ番組などでは地下鉄オウムサリン事件と並んで特集されるほどである。それによってペドフィリアやオタクに偏見が生まれたことにより社会的な情勢までもを変化させてしまったのも事実である。
『オタク=気持ち悪い・変態』の方程式はこの事件がきっかけにできたものであることが定説である。
1962年 | |
8月21日 | 長男として誕生 |
1988年 | |
5月16日 | 祖父死去 |
8月22日 | 埼玉県入間市の今野真理ちゃん(当時4歳)行方不明 |
10月3日 | 埼玉県飯能市の吉沢正美ちゃん(当時7歳)行方不明 |
12月9日 | 埼玉県川越市の難波絵梨香ちゃん(当時4歳)行方不明 |
15日 | 埼玉県名栗村の山林で難波絵梨香ちゃんの全裸死体が発見 |
20日 | 難波絵梨香ちゃん宅に<絵梨香 かぜ せき のど 楽 死>と書かれた葉書きが届く |
1989年 | |
1月中旬 | 今野真理ちゃんの遺骨を拾って被害者の両親に届け、死んでいることを知らせようと殺害現場へ |
2月6日 | 今野真理ちゃん宅に<真理 遺骨 焼 証明 鑑定>と書かれた紙片と骨片などが入ったダンボールが届く |
10日 | 今野真理ちゃん事件に関する「今田勇子」の名で犯行声明文が朝日新聞東京本社に届く |
11日 | 同じ犯行声明文が今野真理ちゃん宅に届く |
3月11日 | 「今田勇子」名の告白文が朝日新聞東京本社と真理ちゃん宅に届く |
6月6日 | 東京都江東区東雲で、野本綾子ちゃん(当時5歳)が行方不明に |
6月11日 | 飯能市の宮沢湖霊園のトイレ脇でで野本綾子ちゃんの胴体が発見される |
7月23日 | 東京都八王子市で幼女の全裸写真を撮っていた宮崎勤(27歳)を強制猥褻の現行犯で逮捕 |
8月7日 | 宮崎勤、猥褻容疑で起訴される |
8月9日 | 宮崎が野本綾子ちゃんの誘拐殺人を上申書にて自供 |
8月10日 | 宮崎の自供に基づき東京都奥多摩町で野本綾子ちゃんの頭部を発見。マスコミが報道開始 |
8月11日 | 警視庁が宮崎を再逮捕、身柄を深川署へ護送警視庁と埼玉県警の合同捜査本部設置 |
8月13日 | 宮崎が今野真理ちゃん、難波絵梨香ちゃんの誘拐殺人を自供 |
8月24日 | 宮崎、徳井達司医師による簡易精神鑑定を受ける |
9月5日 | 宮崎が吉沢正美ちゃんの誘拐殺人を自供 |
9月6日 | 自供に基づき吉沢正美ちゃんの遺骨と衣類を東京都五日市町の日向峰付近の山中で発見 |
9月8日 | 埼玉県警が今野真理ちゃん事件で逮捕。身柄、狭山署へ |
9月13日 | 自供に基づき今野真理ちゃんの遺骨を五日市町で発見 |
10月19日 | 身柄、狭山署から東京拘置所へ移送 |
1990年 | |
3月30日 | 東京地裁で第1回公判。幼女の「両手は自分で食べた」と述べる |
3月31日 | 立川簡裁で宮崎の両親が検察側証人として出廷し,非公開で証人尋問が行われる |
1992年 | |
3月 | 慶応大・保崎秀夫教授らによる精神鑑定(第1回鑑定) |
3月31日 | 「善悪を判断し、その判断に従い行動する能力は保たれていた」と責任能力を認める保崎鑑定書提出 |
11月11日 | 初の被告人質問で「祖父の遺骨を食べた」などと供述。弁護側が再鑑定を申請 |
12月18日 | 再鑑定を内沼、関根、中安の3人に委嘱。公判中断 |
1994年 | |
11月 | 帝京大・内沼幸雄教授らによる精神鑑定(第2回鑑定) |
11月21日 | 宮崎の父、多摩川に投身自殺 |
11月25日 | 「多重人格を主体とする精神病で、善悪の弁識能力などが若干減弱していた」として責任能力は限定的とする内沼・関根鑑定書提出 |
12月19日 | 「精神分裂病で心神耗弱に相当するが免責される部分は少ない」とする中安鑑定書が提出 |
1996年 | |
10月7日 | 第36回公判で検察官が死刑を求刑 |
12月25日 | 弁護側が最終弁論で「心神喪失か心神耗弱だった」と主張 |
1997年 | |
4月14日 | 第38回公判で死刑判決が言い渡される(→控訴 |
2001年 | |
6月28日 | 東京高裁、控訴を棄却。2審も死刑判決 |
(参考:仮設の彼岸http://tasa5600.hp.infoseek.co.jp/)